Fuji Taitoのプロフィール【ラッパー】【BRAIZA】【ラップスタア誕生】壮絶な人生を変えた出来事

HIPHOP

今回は、コアなファンを中心に若手ラッパーの中でも高いスキルを持つ、最近ではラップスタア誕生に出演して話題になったFuji Taitoについて簡単にまとめました。


Fuji Taitoの生い立ち

群馬県邑楽郡大泉町出身 本名 谷井英樹
ブラジルの両親の元生まれました。大泉町は日本でも一番ブラジル人が多く、彼曰く一か月に一回は銃声を聞くような街だったそうです。また、プッシャーやジャンキー車を窃盗するような人もいるところ。ほかの町にはヤクザがいるが、この町は、ブラジル人とブラジル人が直でルートを作る独特なコミュニティ。そんな環境で育った彼は、10代にして犯罪に手を染めることになります。
それは、彼ががまだ12歳の時ある人と揉め落ちていた鉄パイプで相手を殴った際、その鉄パイプの先が尖っていて危うく死んでしまうほどの怪我をさせてしまいます。近くにいたその人の先輩がすぐに駆けつけて来て俺もやられると思い逃げようとしたFuji Taitoに「まぁ、待て」と言われ話してみると、脱法ドラッグのビジネスのスカウト。ビジネスを始めるに当たり、その先輩が「お前みたいな普通のガキが必要だ、でもちびんないガキが必要だ。」と言われます。これは先輩がビジネスを始めるにあたり、捕まりにくい年齢の子が必要だったということで、Fuji Taitoを勧誘。「お前が14になるまでだ」と言われ、「なら、いいや。なにしてもいいや。」と思ったFuji Taitoは結局15歳まで脱法ドラッグビジネスをしてしまいます。のちにラッパーFuji Taitoの名前の由来にもなるその先輩の存在が今の彼を形作る事になります。ブラジルから材料を輸入して山小屋を借りたり、大きな倉庫を借りたりしてドラッグのビジネスをしながら中1から中3までその先輩とずっと一緒にいて、学校では常に寝ていたそうです。毎晩のように先輩と遊ぶ中でたくさんの事を叩き込まれ、弟のように扱ってくれたそうです。

ラップにハマったきっかけ

中学生の頃にラジオで流れたGucci Maneの「Bingo」と言う曲を聞いた瞬間、「やべぇ、こんな音楽があるんだ!!」と衝撃を受ける。それを聞いたお母さんが「2Pacもいいよ!あと50Centもいいよ!」みたいに他のラッパーも教えてくれて、USのHIPHOPを聞くようになります。ちなみにお母さんは、大泉でアパレルをやっていて、店でHIPHOPのMVを流していたことから元々小さい頃からHIPHOPは身近にあったそうです。日本のラッパーでくらったのは、「ANARCHY」きっかけになったのは、地元大泉にあるやばい団地で育った友達、その友達はFuji Taitoの目の前である人に刃物で刺されたのを抜いて刺し返したりするほどの人間だったが、ANARCHYを聞いて泣いていたそうです。それを見てくらったそうです。


ラップをはじめたきっかけ

先輩に「ラップしてみろよ」と言われフリースタイルをしたのがきっかけだそうです。その頃周りにラップをしている人はいなかったが、ビートを流したら、ノリでフリースタイルをする人はいっぱいいたそうです。
さきほどから、銃やドラッグなど日本とは思えないような話がありましたが、当時中学生だった彼が聞いた話には、昔ブラジル人対ヤクザの抗争があり、大人たちが机にコカインのラインを何本も引いて、「よし、1人づついけ!」と言いバキバキになりながら、バットとナイフを持って殴り込みに行っていたとゆうことがあったり、コンビニの前でサンタの袋ぐらいの量の大麻を担いで歩いている人を見たことがあったそうです。ちなみにFuji Taitoのお母さんのおじさんといとこは、PCCと呼ばれるブラジルのギャングで特におじさんは、ヤクザも頭があがらないような存在で、「当時の日本は楽勝だった、ブラジル人大勢で突っ込めば余裕」と言ったほど。日本で問題を起こし、強制送還され戻ったブラジルでも問題を起こし現在では、ポルトガルに住んでいるそのおじさんにFuji Taitoは会いに行って話したときに、めっちゃDNAを感じたそうです。

先輩の死

突然中学生の終わりごろに敬愛していた先輩が死んでしまいます。それがきっかけで、今までのビジネスも失敗に終わり高校へ入学。中学生にしてありえない経験をしたFuji Taitoは初めて高校で普通の人と出会います。心の中で、どこかすさんだ生活を変えたいという気持ちもあった彼はのちに、「環境を変えないと自分も変えられない。」「自分を変えられる、行き会い方向に行けるヴァイブスを持っている仲間を見つけることも大事。」と語る。


Fuji Taitoを変える大きな出来事

入学して間もない高校1年生の時、「日本で高校生のラップイベントとかあるのかな」と思って検索したら高校生ラップ選手権がヒットして、ホームページから応募して、CoRoNと言う名前で第1回高校生ラップ選手権に出場。遊び以外で初めてだったラップで初戦に当たったのはT-Pablowだった結果は、初戦敗退だったが、そのバトルののちにこう語っていた、「あの大失敗がなかったら俺ただのなんでもない奴だった。普通にラップやって普通にパブロ君に負けてたらただの選手権敗退者だった、だけどあそこでクソ下手くそなラップやってボコボコに負けたからこそ逆に何でもできる。」その後、第3回大会を見に行き大人気になったラップ選手権の観客の熱気の凄さに、「俺、本気でやろう」と決意。第4回大会で二冠を達成したT-Pablowを見て、「俺も別のルートで一番になろう」と逆向をプラスに変換。そして高校で知り合った友達とUMAを結成、UMAとはMC.DJ.スケーター.ダンサー.グラフィティライターなど総勢10名で構成されたHIPHOPコレクティブでZEEBRAのレーベル、グランドマスターのコンピレーションアルバムに参加したり、地元の劇場でイベントを打ったりの日々を送ります。そして現在のメンバーと色んなものを見て影響を受けられたらいいなと思い、東京でラップ合宿を始めます。ですが、東京では薬局でキメられる物を買いまくってバカ飲みしてしまうなどのドラッグの遊びにハマってしまいます。メンバーも数人大泉やブラジルに帰ったりする中で、2017年LDHのオーディションの話が来ます。それは、LDH主催のボーカルバトルオーディションでそれに参加し、ラップ部門でファイナリストまで残りますが結果LDHのオーディションに落ちてしまい、「どうのかここで一発かまさないと終わりじゃん」「仲間もそれぞれの人生歩み始めちゃう」と焦りを感じ、制作していたデビューEP「BANGAZ」を世に出すと瞬く間に注目が集まり、また曲作りを再開。このEPから亡くなった先輩の名前から生まれた、Fuji Taitoと言う名義を使い始めます。そして大泉に戻り、UMAは現在のBRAIZAに発展。中学の時のビジネスが発展させられなかったことに対する反省から、「自分が有名になる事よりも仲間と稼ぎたい」と考えているFuji Taito、亡くなってしまったと成し遂げられなかったビジネスへの思いが伝わります。

今後の展望

最後に今後の展望について彼は、とにかく音楽で一番になりたい、それを大きくする事でビジネスになると思うし同時にアートでもあるんじゃないかと思う。結局はビジネス&アートと語っていました。



個人的にラップスタアのFuji Taito君の「crayon」めちゃくちゃ好きでした!!あと、もともと聞いていたFuji Taito君のBRIZAのアルバムもめちゃくちゃかっこいいので、聞いたことない方は聞いてみてください!!

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